■考えごとをしていたら眠れず、たまらなくなって911を走らせた。夜中の3時過ぎに家を出て、あてもなく911を走らせた。もちろん何かが変わるのではないか? という淡い期待を込めて。
■しかし結果としては何も変わらないどころか、考えが巡り巡って、愛する、ということは一体何なのか? という深みにはまった。走らせる911の感触が優れたものとして伝わるほどに、僕は永遠に答えのでない深みにはまっていったように思えた。
■911を走らせながら考えていたのは、スポーツカーのことだ。スポーツカーとは一体何なのか? そう思いながらスロットルを踏み込んでいた。スポーツカーという存在は、僕に何をもたらしているのだろう、と。
■そうして思い巡らせても結局は答えがでず、僕の想いは、スポーツカーが大好きで、たまらなく好きで、愛している、ということに行き当たってしまった。特にここ最近は、本当に心の底からそう思えていた。それは先にこのブログでも物議を醸した、ミニバンの話という違った形にもありありとあらわれていた。そして僕は今日、911を走らせて、改めて心の底からスポーツカーを愛しているのだ、と思った。
■しかし、ふと気が付くと、そうした僕のスポーツカーへの深い愛情が増せば増すほど、何かが犠牲になっているように思えてしまう。自分の好きなように振る舞えば振る舞うほどに、確実に何か犠牲が生まれているように思えてならない。
■例えば顕著なのが家庭。妻は僕がスポーツカーを愛することを全面的に了承してくれているが、一方で口にはしないが我慢をしているように思う。事実、最近ウチの911はほとんど動いていなかった。さらにつまらないことだが、家計を圧迫しているのも事実である。3台ものスポーツカーを維持していくのは、正直経済的に苦しい部分が多い。ローン、保険、ガソリン代…僕は意識していないが、もしかしたら妻はハラハラする部分があるのではないか?
■ただ経済的なことは解決が図りやすい。3台を維持するならば、それだけ仕事を頑張ればいいだけの話だし、リアルに家計がひっ迫しているなら、3台を手放せばいいだけの話である。そこからすれば、家庭の犠牲も簡単に解決できる。何かを手放し、皆で乗れるクルマを用意すればいいだけの話なのだから。
■だがやっかいなのは、分かっていても踏ん切りがつかないこと。自身のわがままによって様々な物事を犠牲にしていることは知っている。でも、知っているからこそ、ますますスポーツカーへの愛情が増すのも事実。何かを犠牲してしまえるほど愛することができるから、スポーツカーに心奪われるのである。
■実は自分でも、これはいくら何でもやりすぎだ、と思っている。スポーツカーが心底好きだからとはいえ、3台も必要ないことは重々承知だ。でも、僕にはそうすることしかできなかった。自分の思いのままに振る舞ってみなければ、絶対に分からない。そう、思えてしまったのだ。それが非常に傲慢なことと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
■だからこそ、悩ましい。今だから言えるが、僕はこれまで自己所有車に、それほど強い感情は抱かなかった。事実、いろんなクルマを短い期間で何台も乗り継いできた。もちろん気に入ったクルマを…という大前提があり、その中にもスポーツカーは含まれていた。ただ、それでも深く感情を込めるということはしなかった。なぜならクルマはあくまで機械であり、何か大切なものをかけてまで所有する理由はないと思えたからだ。もちろんこの仕事をしているから、できる限り様々なクルマを所有して体験とする…という想いもあったわけだが。
■しかしいつしか、僕の心はスポーツカーに向き、それに感情を込めるようになった。走らせた瞬間の、他では絶対に味わえぬ感触の虜となり、それを常に手元に置き、愛でていたいと思うようになった。そして今に至り、僕は何か大切なものをかけてまでスポーツカーを愛している。
■だが、僕のスポーツカーに対する愛情が深まるほどに、僕を取り巻く環境のバランスが悪くなるのも事実。僕が1人で生きているならば一向にかまわないことが、残念ながらそうはならないのが現実だ。それももちろん分かっているのだが、一方で何かを愛する、ということは、たとえそれでも貫き通すものなのだろうとも思う。
■自分の思うがままを貫き通すためには、絞り出すような深い愛情が必須だ。しかし、自分の思うがままを貫き「通さない」ことで、自分と、自分を取り巻く環境とのバランスは良い方向を向く。しかも、そうした行為は、別の次元での愛情を生み出すものだとも思える。
■人とクルマを比べるわけではないのだが、特に家庭があると、スポーツカーを愛するというのは難しい。しかも僕の場合、それが3台もあるのだから、明らかに何か破綻をきたしていると思う。
■家のクルマが全てスポーツカーになって、1年が経った。たった1年ではあるが、不思議と長い1年にも思えたのは、それがスポーツカーだからだろう。この1年というのは、ちょうどさっき走らせた911と過ごした時間でもあるわけだが、911と過ごした時間は実際には極めて短いのに、不思議と長く感じるのだ。おそらくそれは911があまりに濃密な中身を持った存在だからだろうと思う。単に刺激的で刹那的であれば、おそらくこの1年は短く思えたはず。そして短い1年だったとしたら、もう飽きが来ているに違いない。
■しかし、この1年は長く感じた。特に911を走らせた記憶を辿ると、実に様々な感触が蘇ってきて、あまりにも多くの印象がありすぎるのだ。僕は現在自己所有する911の走りをして、「5分乗れば永遠の記憶に残る」と記したことがある。その時は分からなかったが、自己所有すると永遠の記憶に残る走りと日常的に向かい合うことになり、それゆえに実際には短い時間が長く感じられることを知った。
■それは僕にとって、とても素晴らしいこと。いやこれこそがスポーツカーを愛することの素晴らしさではないかと思える。しかし、ふと我に返ると、その一方でいろいろな意味で苦労が生まれているのも事実なのだ。
■そう考えると、とてもツラい。上手く言えないが、何か愛する、ということは、他の対象への愛をも気付かせてしまうものでもある。全く比べようのない別の物事を愛することの大切さを、改めて教えてくれているように思えてならない。ただ、そう考えると再び想いは巡り、スポーツカーが余計に、美しくも儚いものに思えてしまう。だからこそ、愛することをやめられないでいる。
■もちろんこれはあくまで、僕の極めて個人的な、ある意味間違った問題を前提にした話でもある。そう思うと僕にとって、愛する、ということは、永遠に終わりなき想い。
■時に歓び、時に苦しみ、そして長いスパンで見ればそのほとんどが悩ましい、そんな想いのように思える。
■ただそれでも僕は未だ、スポーツカーを愛する、ということをやめられずにいる。そしてまた途方に暮れつつも、僕はまたスポーツカーを走らせる。
■そして想う、僕はスポーツカーを愛し続けたい、と。